“さらんご〜ら(saranggola)”とは、タガログ語で「凧」の意味です。 |
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さらんご〜らの本業は隠居! 隠居仕事の神髄は... ◆庭仕事 隠居暮らしに必携の本・CD ◆お勧めの1冊 ◆お勧めのCD 最初に聴いたのは... “なごり雪”の“Ninsan lang”だった ◆JPM大好き お気に召したらお使いください ◆カウンター 隠居仕事もさまざま... ◆フィリピンの地名の語源探し ◆フィリピンの珍しい苗字 *参考資料 フィリピンの概略 フィリピンの歴史 新聞に出てくる略語 |
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◆先史時代 時代は詳らかではありませんが、最古の民族は2万年から3万年前に移り住んできたネグリト人と思われます。当初、ネグリト人はオーストロネシア人のマレー語族の分派と思われていましたが、近年の遺伝子研究によりモンゴロイド説が浮上してきました。 (独りごと) 赤ちゃんのお尻に蒙古班を見たことがあります。 それ以来、フィリピン人の源流はモンゴロイド!?...と疑っていました。 紀元前4000年頃、オーストロネシア人のマレー・ポリネシア語族の分派が入りました。 彼らを原始マレーと分類しています。彼らは製鉄と灌漑技術をもっていたようで、先住民族のネグリト人より優勢であったため、ネグリト人は山岳地帯に追われたようです。 それから2000年ほどして、紀元前2000年頃、水田農耕の稲作技術をもった古マレーが移住し、 紀元前500年ごろから13世紀ごろにかけて新マレー人が移住してきた... と、ものの本に書かれていました。 ◆イスラム教の伝来 14世紀後半、東南アジア、中国、中東との交易を通じて、イスラム教が伝わったと思われます。 イスラム教は島々に伝搬し、15世紀後半にはマニラにもブルネイと姻戚関係を結ぶ人々が集落を作っていていました。ミンダナオではイスラムによるマギンダナオ王国、スルー王国が生まれました。 (独りごと) 古代の日本の“表”が日本海側であったように、 昔のフィリピンは立地、地形、海流などからして...、 ビサヤ、ミンダナオ地方が外国との交流の玄関口だったのかな。 ◆中世 16世紀にマゼランが来て以降の歴史は、おおよそ明らかになっています。 それなりの資料も多いのですが、スペイン以前に関しては資料が少なく、研究も進んでいないようです。 中国の清代の資料によると、当時のフィリピンに当たる地域の人々と交易があったとされています。 また、トンド王国は中国との交易が盛んで、地名のトンドは中国の“東都”を充てたようです。 この頃、ミンダナオにはブツアン王国、セブ王国などの存在が確認されています。 更には、日本の戦国時代には堺の商人、納屋助左衛門が貿易で、巨万の富を築いたようです。 (独りごと) 高温多湿の気候が腐らせてしまったのか...、 中央集権が進まなかったせいなのか...。 “スペイン以前のフィリピン”という本をお勧めしています。 ◆スペイン植民地時代 1521年、マゼランがスペイン船団を率いてセブに到着しました。 武力をもってイスラムからキリスト教への改宗を迫り、セブ首長以下の改宗に成功します。その勢いで、マクタンの首長・ラプラプにも改宗とセブ首長への服従を迫りました。しかし、ラプラプはそれを拒み、スペイン軍団に戦いを挑み、見事に勝利を収めてしまいました。この時、マゼランは戦死しました。 (独りごと) ということは、マゼランは世界一周をしていないのか...!! 1529年、オランダとのサラゴラ条約により、スペイン領としました。 1543年、スペイン軍団が訪れ、この時、スペインのフェリペ皇太子の名に因んで、“フィリピン諸島“と名付けられました。 1565年、メキシコからレガスピがセブ島に到着して占領し、植民地政策を取り、初代の総督となりました。 その当時、20人ほどの日本人が居住していたことがわかっています。 その後、17世紀には1500人規模に増え、キリシタン禁止令で日本を追放された大名の高山右近の一行がマニラに到着しました。 (独りごと) 高山右近が大層な出迎えを受けたようだが...、 その割には、お墓の場所すら...わからない。 ◆独立運動 アメリカやスペインなどとの交易で有産階級が生まれてきました。 彼らはスペインへ留学し、その中からフィリピンへのナショナリズムや民族意識に芽生えた知識階層が生まれた。やがて、民族運動に発展していくのですが、1872年1月のカビテ暴動の鎮圧によって、ナショナリズムに火がつきました。 1882年、デル・ピラールによってタガログ語による日刊新聞を発行しました。 続いて、1887年、スペイン留学中のリサールが、“我に触るな”を発行し、火の付いたナショナリズムに改革の新たな火種を提供しました。 1892年、リサールはスペインから帰国して直ぐ、“フィリピン革命同盟”を結成しますが、反逆罪で逮捕されてしまいました。 ホセ・リサールの逮捕を機に、アンドレス・ボニファシオらは秘密結社“カティプナン”を結成します。 1896年、カティプナンは武力蜂起をしますが、鎮圧に当たった当局の手によって、リサールが処刑されてしまいます。その後、ボニファシオとエミリオ・アギナルドの間で勢力争いが起き、勢力を掌握したアギナルドはボニファシオを処刑してしまいます。その翌年の1897年、アギナルドは香港に亡命してしまいます。 1898年、アメリカとスペインの間で米西戦争が勃発します。 フィリピン上陸を目指すアメリカは、香港へ亡命中のアギナルドにフィリピンの独立を支持することを条件に、水先案内人役を要請し、5月に上陸を果たします。その翌月の6月12日、カビテのカインタにあった自宅で独立宣伝をします。 これが、現在のフィリピンの独立記念日になっています。 その後、スペイン総督府を落とし、9月15日にブラカン州のマロロスで革命議会を開催しました。 (独りごと) ホセ・リサールは捕えられて処刑されているが...、 その直前、スペインの言いなりになってメキシコへ行こうとして、捕まった。 過激派ではないが、かなりスペイン寄りな気がしないでもないが...。 ◆アメリカによる統治 スペインから独立した筈でしたが、アメリカとスペインの間で2000万ドルでフィリピンを売り渡す話し合いが成立していました。1899年1月、アギナルドはマロロス憲法を公布し、フィリピン共和国(第一次共和国)を樹立します。しかし、1900年にマロロス陥落、翌1901年3月にアギナルドがアメリカに逮捕されました。 1902年には、フィリピンのほぼ全土がアメリカの手に落ち、植民地となってしまいました。 1907年、フィリピン組織法の下でフィリピン議会が生まれ、1915年にはスールー王国もアメリカの軍門に下り、全国が平定されました。 (独りごと) 歴史が大嫌いだったので、よく解らないが...、 欧米列強のアジアにおける植民地政策というのは...凄かったようだ。 ◆フィリピン・コモンウェルス 1934年、アメリカのルーズベルト大統領の政権下で、フィリピンの将来の独立を認めるフィリピン独立方が成立しました。翌、35年にマヌエル・ケソン大統領のもとでアメリカ自治領政府のコモンウェルスが成立しました。これで独立に向けて、10年というスケジュールと準備が始まりました。 しかし、1941年12月、日本は米英に対して宣戦布告し、翌42年1月2日、日本軍はマニラを占領してしまいました。マニラからバタアンに逃れたマッカーサーとケソン大統領は、オーストラリアに亡命、後にアメリカに入国しました。 (独りごと) 戦時中のことを知らないので、この辺は...”も”良く解りません。 ◆フィリピン第二共和国 1943年10月14日、日本はホセ・ラウレルを大統領として第二共和国を認めた。 1944年10月、アメリカ軍はレイテ島に上陸、45年3月3日にマニラは制圧されました。 ◆フィリピン第三共和国 1946年4月の選挙で民主党が勝利し、マヌエル・ロハス大統領が誕生しました。そして、同年7月4日、主権を取り戻し第三共和国が成立しました。 【関連ページ】 ●フィリピンの概要 |
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