さらんご〜らのフィリピンで隠居暮らし
“さらんご〜ら(saranggola)”とは、タガログ語で「凧」の意味です。
隠居暮らしの前にこんなことが...
カミさんの秘められた高校時代に迫る旅...バギオ
バギオ市役所
ヒルトップ市場へ続く道

親戚宅へ続く坂道

親戚の人たち

PMA

PMAで記念撮影

カミさんが通っていた高校

お気に入りのベンチが残っていた!

建物はコンクリートの塊

住宅跡の裏にあった釣り橋...怖っ!

大きな墓石のように立つ廃墟

カミさんが通っていた小学校
旅の始まりは、懐かしい昔話
 まだ私たちが日本で暮らしている頃・・・、
何がきっかけだったのか、カミさんの昔話を聞くことになりました。
同居している父母はもう、階下の部屋で寝息を立てている...、そんな時間だったと記憶しています。

 父親がバギオの金鉱で働いていました。
小さな落盤事故で怪我をし、十分な収入を得られなくなった頃、カミさんとすぐ下の妹は高校生でした。住居のある山の中からバギオの公園まで、路線ジープが走っていました。高校はこのジープの路線の途中にありました。朝はジープに乗って登校し、下校時はジープ代の節約と果物取りを兼ねて、近所に住む友だちらと一緒に山道を30〜40分歩いて帰ってきました。しかし、朝のジープ代にも、お昼のお弁当、おやつ代にも困ることがありました。登校時にも山道を歩き、途中でもいだ果物は学校でのおやつになり、下校時の収穫は幼い弟や妹へのお土産にもなりました。友だちと木に登って果物を取り、沢に足を浸して歌をうたいました。
 そんな話をしている時、懐かしい友だちの顔を思い出しているのでしょうか、食べた果物のみずみずしい味を思い出しているのでしょうか、カミさんはとても楽しそうでした。

 ジープ代も、お弁当も用意できない日もありました。
昼時になりますと、それぞれがお気に入りの場所で、お弁当を広げて食べていました。カミさんのお気に入りの場所は、校舎の脇に並んだベンチ、校舎側から数えて2番目のコンクリート製のベンチでした。
 ある日、お弁当を持っていなかったカミさんと妹は、大きな木に登り、太い枝に座り本を読んで時を過ごしました。勿論、お腹は空いていました。そんな時、毎日一緒にベンチでお弁当を食べる友だちらは、そこにカミさんと妹が居ない理由(わけ)を知っていました。「分けて食べよう」と声を掛けても、その言葉を受けてお弁当を分けてもらうカミさんと妹ではないことを、友だちらは知っていました。
 昼休みが終わろうとする頃、木の下から友だちが声を掛けました。
「門の前に、お母さんが来ているよ」と。
その意味が直ぐに分かりました。
木から滑り降り、校門まで走りました。
鉄の門扉越しに母親が渡してくれたのは、2本のバナナと10ペソのお金でした。
 登校時には無かった10ペソ、何処からか借りてきたのか、何かを売って得たのか、とにかく2本のバナナと10ペソを持って、山道を走ってきてくれました。バナナを食べながらサリサリまで走り、そこでパンを買って水を飲んでお腹に流し込み、午後の授業にでました。パンを買ったお釣りの2ペソで、クッキーやキャンディを買うことはできませんでした。お昼を食べられただけで十分でした。
 こんな話をしている時、カミさんの顔からは楽しそうな微笑は消え、目は涙で光っていました。

 お弁当を持っていけないような時、本当にお金の無い時は、家でご飯を食べることにも困りました。
朝食、夕食、その日のお米さえ無いこともありました。
近所で貸して貰えないこともありました。
下校時に取ってきた果物を兄弟で分けて食べたり、空腹のまま床に就くことも少なくありませんでした。お腹が空いて眠れないこともありました。
 そんな時は・・・、
「早く朝にならないかな〜。
 朝になれば、山で果物を取って沢山食べられる...」
と考えながら眠りました。
 学校が休みの日は、一所懸命働きました。
山で薪を拾って売ることもしました。
夜になると、金鉱で働く工員の食堂で皿洗いもしました。
「だって、お腹が空いて眠れないの、嫌だもの。
 家族で1日3回、ちゃんとご飯、食べたかったもの」

 この時、カミさんの顔は涙でボロボロでした。
私自身、決して裕福な家庭で育ったわけではありませんが、カミさんが涙ながらに語った生活は、戦後の物のない、貧しい時代を生き抜いた私の両親の経験にも似たものでした。少なくとも、私にはここまでの経験はありませんでした。
 階下で眠っている私の両親とフィリピンから来たカミさん・・・、
その体験の内容こそ違っても、貧しさと、そこから生まれる家族の絆、時を経て同じ思い出を共有しているように思え、私ひとりが仲間はずれになったような・・・、そんな思いさえしました。
 話に詰まったカミさんの顔は、20数歳の今の顔ではなく、その空腹に耐え、貧しさと戦い、家族と助け合っていた高校生の頃の顔、無論、そんな顔を私が知る筈もないのですが...、そんな顔に見え、私もつい涙を流してしまいました。
「いつか、そのバギオの学校に連れていって・・・」
と言ったのが、この旅の始まりです。

さらんご〜ら、迷子になる
 2月23日、日本から友人がフィリピンにやってきました。
マニラ空港で出迎え、そのままホテルまで行って、積もる話に時を忘れてしまいました。
「明日はバギオへ向かってドライブ。
 車の運転は義兄に任せればいいや!」
とばかりに、深夜まで話し込んでしまいました。
 帰宅したのは、夜中の12時半でした。
慌しく旅の用意をして、不眠のまま車に乗り込みました。車の後部には、日本から持ってきた座布団を2枚置き、睡魔に負けた時に備えました。

 午前2時半、義兄の運転でマニラを出発(しめしめ、計画通り)。
ブラカンのガソリンスタンドで休憩、更に走ってバリワグでカミさんの母親、姉とその夫と合流しました。今回の旅のもうひとつの目的は、日頃世話になっている姉夫婦へのお礼も兼ねていました。こっちとしても、それなりに世話をしている積もり。まあ、それはそれとして、何の楽しみも無い“正真正銘の田舎”で、毎日真っ黒に日焼けして畑仕事に頑張ってくれています。
『偶には、慰労も...いいかな!』

 午前4時半、ブラカン出発。
運転席には義兄、助手席には姉の夫、後部座席には義母、義姉、そしてカミさん。私は予ねてから用意していた、後部座席後方の名付けてVIPルームで高いびき。時々目を覚まして、喉が渇いた、腹が減った...と、VIPルームの住人は我がまま放題!

※ブラカン=メトロ・マニラの北方、ブラカン州
※ガソリンスタンド=高速北線沿いにあるガソリンスタンド。
  日本の高速道路のサービス・エリアのように、広大な駐車場、レストラン、ファスト・フード・ショップ
  などがある
※バリワグ=ブラカン州内のひとつの街

 バギオに到着したのは、午前9時過ぎでした。
しかし、バギオの街は年に1度のフラワー・フェスティバルの最終日と日曜日が重なって、街中何処も大、大、大渋滞!
 やっと目的地付近に到着しました。
女性軍は車を降りて宿探し...、車は駐車場も見つからず渋滞の中をウロウロ。
携帯電話でカミさんと連絡してみて...愕然!
宿の予約をしてなかったことが判明したのです。
『なんだよ〜、お祭りだと分かっていて、予約もしてなかったのかよぉ〜〜!』
 宿が取れた旨の連絡が入ったものの、渋滞、交通規制で、宿まで辿り着けないのです。やっとの思いでホテルに到着したのが12時でした。なんと、バギオの街中で3時間も彷徨っていた計算です。
『まったく、先が思いやられるぜ!』

 ホテルにはバギオ在住の従姉妹が来ていました。
彼女の先導で、市内を散歩しながら、従姉妹と叔母の家族が住む家を訪問することになりました。途中通った市場の物凄さにビックリ!急な坂道の両脇には、観光用ではない露店がぎっしり並んでいました。日曜日とあって、まるでラッシュ・アワーのような人ごみです。物珍しい店を覗き、冷やかしを繰り返し、坂道を登ったり降りたりしているうちに、姉の夫と私、バギオを知らない私たちふたりが皆とはぐれて迷子になってしまいました。それでも、好奇心の塊と向こうっ気だけで、市場をフラフラ...、直進すれば、どこかで、誰かが待っていてくれるだろうという、淡い期待のみが頼りでした。
 高校生の夏休みに、この市場のどこかで甘栗、母親の作ったツーピッグ(餅をバナナの葉で包み、焼いた物)を売っていて、警官に追いかけられたという話を思い出していました。なるほど、道路を不法占拠している露店商、警官への賄賂が行き届いていれば問題なく商売をすることができます。しかし、賄賂など渡す余裕のない露店商や子供などは、警官にひとたまりもなく蹴散らされていました。
『カミさんや妹も、あんなにされて逃げ惑っていたのかな・・・・』

 人ごみが途切れたところで、見慣れた顔に出会うことができました。
カミさんらは、私がカミさんの思い出の世界で、感慨に浸っていたことなど一切介せず、さっさと道を左に曲がって行ってしまいました。カミさんらの後に続いて、道を曲がり、そこで見たものは・・・・、物凄い登りの急な坂道でした。
『こんな坂道、登るぼのかぁ〜〜!
 手すりとか、鎖とか・・・付けておけよぉ〜!』

 息も絶え絶えで辿り着いた所が、目指す従姉妹、叔母の住まいでした。
坂の中腹に立ち、ミネラル・ウォターを飲みながら吸うタバコ...、隣に来たカミさんが言いました。
「あの山の向こうが、明日行く学校・・・・」
『ああ、そう、今、何も考えたくない...!』

思い出のベンチに座って
 目的の学校に向かう前に、フィリピン・ミリタリー・アカデミー(PMA)に立ち寄りました。
流石に、ここは別天地でした。
何が・・・?
ゴミひとつ落ちていないのです。
PMAはフィリピンで最も美しい場所のひとつかも知れません(笑)。
『やれば...出来るじゃん!』

 PMAを後にして、およそ1時間、山道を走りました。
やがて右側に小さなグランドを備えた学校を発見しました。ここが、カミさんの通っていた高校でした。坂道を下って、校門から校庭へ入っていきました。校門のすぐ近くで、15〜6人の人たちがバーベキューをしていました。
聞くと、クラス会でした。

 カミさんの歩く早さが、普段よりも早くなりました。
「ここが、私の好きだったベンチ。
 いつもお弁当を食べたところ」
「ここが、学費を払えない時、お母さんが言い訳をしにきた部屋...」
と案内が続きました。
「ところで、ランチタイムに登った木はどこ?」
と訪ねると・・・、
「えっ、覚えていたの、そんな話」
と、カミさんの意外そうな顔つきをしました。
『私はあなたに関して、あなたが思うほど無頓着ではないぞ!!』

「ここ、この木。
 あそこに、妹と登ったの・・・・」
というカミさんの顔は、にこやかに笑っていました。
楽しい思い出が、懐かしさが、辛い思い出に勝ったのでしょうか...。
「あんな所に...?!」
と見上げた木の枝は、私の想像よりもずっと、ずっと高いものでした。その高さまで、どんな思いで登ったのでしょうか。なまじの高さなら、お弁当を食べる友だちらに見つかってしまう。でも、皆はカミさんと妹がベンチに居ない理由を知っている。カミさんの笑顔とは裏腹に、高校生とはいえ、子供心の内側を覗き込んだような気がして、胸に詰まるものを感じてしまいました。

「あの門、さっき入った門、あそにお母さんがバナナを持ってきたの?」
と尋ねると・・・、
「そう、あの門。
 へぇ〜、そんなことも覚えていたんだ!」
と、再び意外そうなカミさんの顔です。

「あれ〜、あの人、私の英語の先生!」
と言いながら、バーべキューをする人たちの中のひとりの女性に近づいていきました。
暫くすると、母親と姉もその話に加わりました。呼ばれて、その輪の中に入りました。
「私の英語の先生・・・○○さん」
と紹介するカミさん・・・、
「いいえ、数学よ」
という先生・・・・。
『なんだよ〜、いい加減だなっ!
 でも、いいか...同じ先生だ!!』

 校門の鉄の門扉から顔を出して...パチリ!
校舎をバックにして...チーズ!
大きな木に抱きついて...イェ〜!
お気に入りのベンチに座って...Vサイン!
恩師を交えて...、バーベキューのクラス会メンバーと一緒に記念撮影会となりました。

 カミさんの昔話を聞いて、数年前に思い立った旅の目的地。
夏休みに入っていたので、学生の姿は無かった。
それだけに、想像力は膨らんだ。

 カミさんのお気に入りだったベンチにも座ってみた。
隣のベンチは、土台だけを残して壊れてしまっていた。
お弁当も無く、妹と登った木も枯れずに残っていた。
登った木の枝は想像以上に高かった。
母親がバナナと10ペソを届けにきた門扉も昔のままだった。
慌ててパンを飲み込んで、飛び込んだ校舎も教室も残っていた。
思いもかけず、恩師と再会することもできた。

 良かった、このベンチが残っていて。
以前聞いた、カミさんの思い出話。
私の経験と余りにかけ離れた話に、私ひとりが置いていかれてしまったような気になった。
今、ベンチに座り、木を見上げ、鉄の門扉に触れてみて...、
やっと共通の思い出のかけらに出会ったような気がした。
校庭で拾ってきた小石、今、庭の何処かに転がっています。

廃墟の町は墓場
 思い出の学び舎から、更に山道を車で30分、そこに遮断機とガードマンが待機していました。ここから先が、カミさんの父親が働き、家族が暮らした金鉱です。

 車は奥を目指して進みました。
往時は多くの金鉱労働者が居たでろうと想像できる、幾棟もの大きな建物を川の両岸に見ることができました。労働者やその家族が暮らしていたであろうと思える長屋式の住宅も残っていました。しかし、どの棟も今は住む人の影は無く、廃墟のような姿をさらしていました。
 病院だったという建物のドアには、大きな錠が掛けられていました。
映画館だったという建物は、コンクリートの塊に姿を変えていました。更に進むと、小さなつり橋が見えてきました。
「あそこが、私たちの家があったところ・・・・!」
とカミさんの声が車の中に轟きました。
つり橋の脇の小さな空き地に車を停めました。
車を降りて、家があったというところへ行ってみました。
そこには既に住宅は無く、高さ2mほどのコンクリートの土台だけが残っていました。
つり橋をバックに...パチリ!

 山と山に囲まれた山峡の金鉱は、廃墟の町になっていました。
まだ金鉱に残り働いている人もいますが、フィリピンの何処でも見かけるビリアードも、トランプに興じる人の姿もありませんでした。
 帰路について暫くすると、カミさんが左手の山を指差しました。
「ここが、学校へ行くときの近道!」
そこには、石を積み上げた階段が草に隠れて残っていました。傾斜角度30度もありそうな急な坂道が、学校へ続く山道の入り口でした。
これで、カミさんの話に出てきた...果物を取って食べたという山道を除いて...全ての舞台を見ることができました。

 バギオ市内に帰る途中の緩やかなカーブで車が止まりました。
車から降りた母親が道端に立ち、胸の前で両手を組みました。谷底を覗き込んで見ました。その奥には、草や花の隙間から僅かに姿を見せる墓石がありました。昔話と一緒に、一番の末の双子の弟を亡くしていると聞いたことを思い出しました。ここに、その子の墓があるのか、それとも親戚、友人の墓なのか、それを確かめることはしませんでした。
『この山全部が、見捨てられた墓場みたいだ!』

あとがき
 以上は、2002年3月3日に「カミさんの青春時代の足跡を訪ねる旅・バギオ」というタイトルで、某メーリング・リストに投稿したものの中から、抜粋したものです。

 マニラに帰る前夜、夕食に食べた魚にあたってしまったようで、38度の発熱と下痢に襲われ、死ぬ思いで帰ってきました。もう暫くは、バギオへ出かけようという気になれません。
        
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