さらんご〜らのフィリピンで隠居暮らし
“さらんご〜ら(saranggola)”とは、タガログ語で「凧」の意味です。
隠居暮らしの前にこんなことが...

父と母(自宅前にて・年月日不明)
『若っ!』


父と母(京都にて・年月日不明)
よく、ふたりであちこちへ出かけていた


母(京都にて・年月日不明)
和服が好きだった!


母(踊りの発表会・年月日不明)
まだまだ元気だった!

さらんご〜ら夫婦の...主にカミさんの奮戦記
 さらんご〜ら夫婦がフィリピンへ来る前、亡父母への介護がありました。
 最初に母が逝き、母を追うように父も...。
 当時の毎日は戦いでしたが、今、読み返してみると、良き思い出です。

 ※全2部作 第2部 お父さん、頑張って!
全2部作 第1部
痛いの嫌だもんね...お母さん
「サラと申します。
 よろしくお願いします」
空港から高速道路を走って小一時間、緊張と疲れのためであろう、暫くの間、車の助手席で眠っていた新妻は目を覚まし、ひとこと言った。

 シートにもたれかかっている姿勢では、高速道路のオレンジ色の照明しか見えない筈なのだが、タレントとして働いていた半年余り前に見慣れていた夜景に気がついたのだろうか。目指す新居の近いことを察したのだろう、突然、シートに座り直して、ひとり言を繰り返した。
「サラと申します。
 よろしくお願いします」
車は高速道路を降りた。

「もう、近い?」
「もう直ぐだよ。」
「ねえ、ちょっと聞いて...、
 お父さん、お母さん、サラと申します。
 よろしくお願いします。
 ・・・・・・これで、大丈夫?」
まだ見ぬ私の父母への挨拶の練習を繰り返した。


「大丈夫、大丈夫、上手い、上手い、いつ練習したんだ?」
「一生懸命考えたの...」
「大丈夫、その調子、その調子」
こんな時の励まし方を、私は知らなかった。

 車はひと角、ふた角曲がって、やがて我が家の前に到着した。
私の車の後方に、成田まで出迎えに来てくれたよっちゃんの車が続いて止まった。前方100メートルほどの所にも、セダンが1台、ワゴン車が1台停まっていた。その脇で、タバコを吸う二人...マリオ君とイチタロー君の姿が見えた。後ろに止まった車からよっちゃんが降りてきて、私の車のトランクから荷物を降ろした。前方の友人らも、駆け寄ってきた。
「お帰りなさい...」
「誰に言ってるんだよ、俺か、カミさんへか...?」
「クヤ、勿論、奥さんにですよ」
友人と言っても、私が42歳、彼らは30台前半で、私のことを「クヤ(兄さん)」と呼んでいた。
そんな冗談を言い合っているうちに、荷物を全て家の中に運び込んでくれていた。
空港に到着したのが、午後7時半。
入国審査、税関を出て、車で1時間半。
午後10時半を過ぎていた。

 玄関へ入ると、父と母、叔母と姉が待っていた。
玄関のドアを開けた途端、目の前に見時らぬ4人の顔が並んでいたのだから、さぞかし、驚いたことだろう。
 打ち合わせ通り、靴を脱いで上がり、靴の向きを向きを変えて居間に入った。
テーブルの上には山のような赤飯があった。
口うるさく、しきたりに厳しく、お体裁屋の母が義姉に言って作らせたのだろう。
天ぷらや刺身なども並んでいた。
直ぐに察しがつく...、長い付き合いだから。

 私は居間を出て、和室...後々カミさんがゲスト・ルームと呼ぶことになる...に入り、仏壇に線香を上げ手を合わせた。フィリピンからカミさんを連れて、無事に帰ってきた報告だった。
 居間に戻ると、酒盛りの準備が整っていた。
友人らも、赤飯、天ぷら、刺身、煮物などを前に、準備万端怠りない。
 普段は近所のスーパーでスナック菓子や惣菜、店頭で焼いている焼き鳥などをそれぞれが買って集まってくる。ビール党の父にビールを買ってきて、ゴマをする奴もいる。そんな時、材料があると決まってトンカツを作る父だった。勝手にグラスを出し、焼酎党、ウィスキー党の友人たちは、居間のキャビネットの棚からボトルを取り出す。行きつけの飲み屋から持ってきたタグに名前を書いて、我が家にボトルを置いてある。
普段は、こんな調子なのだが、今夜ばかりは少々違った。

「ねえ、だれ?」
とカミさんがタガログ語で聞いてきた。
「ああ、叔母さんと義姉(ねえ)さんだよ」
と答えた。
タガログ語ができると便利である、大きな声で内緒話ができる。
 沈黙があった。
どれほどの長さか記憶にはないが、普段とは違って緊張する友人らの顔つきを一巡する時間はあった。それほどの時間だが、カミさんにとってはどれほどの時間だったのか計り知れない。しかし、新しい家族の顔合わせに、カミさんなりに緊張していたことは理解できていた。

「お父さん、おかあさん、叔母さん、お姉さん...、サラと申します。
 よろしくお願いします」
練習とは違い、叔母と姉の登場に戸惑った結果の、精一杯の挨拶だった。
父も叔母も姉も、ひと言ひと言に相槌を打ちながら聞いていたが、ひと言言わねば気がすまない母が口を開いた。
「はい、日本のことは分からないだろうけど、頑張ってね」
文字にすると普通の挨拶なのだが、その言い方ときたら、母子として40数年付き合ってきても・・・、
『きつい...言い方!』と因縁をつけたくなるような言い方だった。
 若い時から働きづめで、何事にも自分の物差しで通してきた母。
私を生む数時間前まで、冬の田んぼに腰まで浸かって野良仕事をしていたと・・・言い張った。成長して後、その言葉を思い出して付近の農地を見て歩いたが、その季節、水をはった田んぼなど無く、一面...麦畑だった。そんな母のきつい一撃が、カミさんへのウェルカム・メッセージだった。

 翌朝は、私と並んで台所に立った。
仏壇にお茶を上げ、ご飯を炊いて、味噌汁を作った。おかずが何であったか、記憶には無い。両親と私、嫁としてのカミさん、4人揃っての初めての朝食だった。朝食も済み、後片付けをすると、母を病院へ送る時間となった。そう、母は昨夜、外泊許可を取って入院先から帰ってきていたのだった。束の間の、一家団欒は終わった。
 私の運転する車で、病院まで4人で向かった。
と言っても、車で5分、ひと角曲がれば、直ぐ病院なのだ。この便利さが、あとあと母の里心、ホームシックの原因になるとは、その時は思いもしていなかった。結婚して日本へ着いた翌日から、姑の介護が始まった。

 母の病気は、慢性関節リウマチ...難病だ。。
体中の関節が侵されていた。手首と頚椎は、特にひどかった。手首のレントゲン写真では、骨の存在を確認できないくらい粉々に砕けていた。手首は内側に曲がって、固まっていた。10本の指の関節は、全て曲がっていた。箸を持つことも出来ない両手になっていた。痛み止めの副腎ホルモンを注射すると、造血作用が低下し、貧血になると聞いていた。血液検査をしても、健康な体とは程遠い結果だった。

 ある日、病院から手をつないで我が家へ向かう、母とカミさんの姿があった。
その晩は、久しぶりの家族揃っての家族団欒だった。翌朝、朝食を済ませ、おやつを食べて、病院に帰る準備を始めた。また、手をつないで、病院へ帰ると、母は笑っていた。だが、いざ着替えに部屋に戻ろうとすると、ダイニングの椅子から立ち上がることすら出来なくなっていた。病院へ電話したら、担当医が直ぐに来てくれた。診察の結果、数日の間、我が家で過ごし、様子を見ることになった。

 顎の関節も侵されていた母の食事には気をつかった。
貧血には、グリーン、イエロー、レッドの野菜が良いと医師から教えられたカミさんが、かぼちゃを煮た。顎の関節が痛み、大きな口を開けない母のために、器に盛ったかぼちゃを一口大に刻んで部屋に運んだ。私は2階に上がり、仕事をしていた。暫くしたら、カミさんが2階に慌しく上がってきた。寝室に入ったまま、出てこない。どうしたのかと思い、覗いてみたら、鏡の前に座り込み、涙ぐんでいた。
訳を聞くと...、
「お母さん、私の煮たかぼちゃ、美味しくないって...食べない。
 一生懸命作って、小さく切って、食べさせてあげようとしたのに...、
 美味しくないから、いらない・・・だって。
 ひどい!」
 この時の涙ながらの訴えの原因をよくよく聞いてみると...、
カミさんが食事を用意する前に、父と母がテレビで相撲を見ながらお茶を飲み、まだお腹が空いていなかった。
「今、ほしくない・・・・」と言ったのが、
「おいしくない・・・」と聞こえたらしい。
なるほど、言われてみれば、似ている。
関心している場合ではなかったが、改めて言葉の難しさを思い知らされた出来事となった。

 多少の波風はあったものの、世間一般程度の平和な生活は続いていた。
しかし、母の様態は徐々に悪い方へ進んでいた。ひとりで立つことも、歩くことも、食事を取ることも、入浴も、トイレも出来ない状態になっていった。

 母を車椅子に乗せ、風呂場の脱衣所まで連れていく。
そこで、衣服を脱がせ、両脇に私の両手を入れ、体を支える。
父が後ろから車椅子を引き抜く。
カミさんが母の両足を支えて、一歩一歩風呂場まで導いていく。
 入浴用の椅子に座らせ、シャワーをかける。
再び、母の両脇に両腕を差込、今度は浴槽に入れる。
腰痛もちの私の腰が、きしむように痛む。
浴槽に浸からせることができると、ひと休みできる。
「ああ、気持ちいい...」
と言って目を細める母の言葉が励みになる。

 カミさんが浴槽脇に座って、手、腕、肩、足と順番に洗っていく。
私は浴槽が壁から飛び出した、僅か10センチ足らずの出っ張りに足をかけ、カミさんのお手伝い。カミさんの手が届かない、母の身体を洗う。
最後にシャンプーをして終わり。
 浴槽から出し、再び椅子に座らせるまでが、またまた戦いとなる。
シャワーで石鹸の泡を洗い流し、母を立たせて車椅子に座らせる。
バスタオルを抱えて父が、車椅子の後ろに控えている。
母を車椅子に座らせようとする時、車椅子が1センチでも動くものなら、きつい言葉が父に飛ぶ...、
「お父さん、しっかり抑えてて...何してるの!」
父とカミさん、私が顔を見合わせる瞬間だ。

 風呂も大変だったが、トイレの世話には閉口した。
ベッドから立たせて、脇に置いた室内用の便器、オマルに座らせる。用が済むと、廃棄用のバケツに素早く蓋をして、トイレまで運び、流して捨てる。もともと臭いには敏感だった私、何度臭いに負けて、吐いたことか知れない。しかし、慣れとは凄いことである。
「何回か吐けば臭いにも慣れる...、手が汚れれば、洗えばいい!」...ぐらいの気持ちになってしまう。

 冬のある日の午後、私は仕事から帰ってきた。
父と母の寝室で、物音が聞こえ、笑い声が響いていた。
ドアを開けてみた。
 石油ストーブがつけられていて、部屋は暖かだった。
ストーブの脇に、大きなプラスチック製のたらい桶が置かれていた。その下には、大きなビニール・シート。ストーブの上には、ヤカンから湯気が昇っていた。
 ベッドの上の母は、全裸であった。
腰の辺りにタオルがかけられていた。カミさんがたらい桶のお湯でタオルすすぎ、母の体を清拭していた。
「お湯がぬるくなった」
と母の文句が飛ぶと、父がヤカンからお湯をたらい桶に注いでいた。
その仕草にもナンクセをつける母に、カミさんが冗談を言って笑っていたのだった。

 そんな様子を、父が私に愚痴る。
意地っ張りの母が、孫のような嫁、それも外国からやってきた嫁に対する負い目なのだろか、素直に「ありがとう」と言えない辛さなのか...と。

 着替えも終わり、後片付けを済まし、カミさんが父と母にお茶を入れる。
4人で母のベッド脇でお茶を飲む。
カミさんが席を立った。
「ありがとう...って、言っておいて」と母が言う。
「そんなこと、サッちゃんに自分で言え!」と怒鳴る父の目は、涙で光っていた。
 父の怒鳴り声に驚いたカミさんが、急須を持って戻ってきた。
自分が叱られたのかと思ったらしい。
叱られた本人の母の目には、涙が光っていた。父に叱られたためなのか、「ありがとう」の涙なのか...。
父に怒鳴られたぐらいで涙を流す母ではないことを、私は知っていた。

 そんな母の様態が急変したのは、年が明けて間もなくだった。
父は言った、「桜の花が見られるかな」と。しかし、桜の花を見ながら、春風と一緒に散歩もした。順調に回復したように見えたのだが...。
 季節は夏になっていた。
いつものように、カミさんとともに病院へ顔を見に行った。
父は、午前6時半からベッドの脇に張り付いていた。父を休ませて、私たちが母とともに昼食を食べた。歯磨きをさせ、食器を片付けた。
 この日、私たちには午後1時に予定が入っていた。
12時5分、母に手を振って病室を後にした。手首の全く動かなくなっていた手を僅かに振って、かすかな声で「バイバイ」と言って笑った。
 それから1時間、私の携帯電話が鳴った。
病院で母の面倒を看てくれていた家政婦さんからの電話だった。
「直ぐに、病院に戻って!」

 カミさんと競争で、車に走った。
炎天下の駐車場に停めておいた車は、サウナ風呂のように暖まっている筈だった。しかし、炎天下を走り、太陽に焼かれている筈の車内に座り、エンジンをかけても汗ひとつかかなかったことを、今でも覚えている。
 車の中から、母の兄弟、親戚、私の兄に電話をかけた。
病院に着いた。顔見知りの駐車場の警備員のおじさんに説明して、病室の近くまで車を乗りつけ、車に鍵をつけたままその場に置いて、病室へ走った。家政婦さんが病室の前で、手招きをしていた。ただ事ではないことを察した。カミさんが後に続いて、病室に飛び込んだ。
 父は、病室の壁際に立っていた。
私たちが飛び込んでも、父は何の反応も示さなかった。
諦めていた。
ベッドに際に座って、母の手を握った。
声を掛けた。
僅かに頷いた...、私にはそう見えた。
しかし、母の体の状態を示すモニターの数値は、心拍も血圧も『0』に近かった。
終わりだと思った。
 親戚も兄弟も、来ていなかった。
医師が心臓マッサージを始めた。
1回、2回、3回...・、何回繰り返したか、分からない。
私は言った・・・、
「先生、眠らせてやってください」。
それが父に代わってできる、私の役目だと思った。

 駐車場に出た。
真夏の太陽の直射日光の暑さを、初めて感じた。
汗が噴き出した。
マリオ君、イチタロー君、よっちゃんらに電話をかけ、タバコを一服つけた。
 家政婦さんから携帯に電話があった。
医師の説明があるということだった。
医師の説明を聞いた。
 リウマチ性の肺炎は非常に珍しい症状を出すらしい。
解剖の許可がほしいと言うことだったが、私はひとことだけ言った。
「薬は何ミリグラム打ったのですか」と。
医師は黙って頭を下げ、席を立った。
母の様態の急変は、投薬した薬の量に原因があったかも知れないという、私の疑問への答えだった...と解釈した。

 霊安室に入った。
母が横たわっていた。
父が線香をあげた。
家政婦さんが線香を上げろと私に言う。
私には線香を上げること、手を合わせることが出来なかった。
カミさんは胸の前で、両手を合わせていた。
それはクリスチャンであるカミさんの、そのスタイルではないことは分かっていた。こういう事態での言うべき言葉、自分の気持ちの表現方法を知らないカミさんのせめてもの抵抗、母の死を受け入れることへの抵抗だったと想像でした。

 母の遺体を我が家に移した。
兄が駆けつけてきたので、葬式の段取りを頼んだ。
兄弟、妹たちが集まってきた。
「急だったね。
 この前会った時、あんなに元気だったのに...」
と、口々に言っていた。
「いつの話をしてるんだ!
 おふくろは、あんたらの顔をどれほど見たかったか。
 何度も電話を入れたのに...。」
悔しさの余り、時、場所柄も考えず、怒鳴り声を上げてしまった。

 友人らが顔を見せ始めた。
箒を持って前の道を掃いている奴がいた。
業者さんと一緒になって花輪を立てている奴がいた。
カミさんの友だちが来たと、告げに来た奴がいた。
 カミさんを探したが、見つからない。
2階の寝室を探したが居ない。
トイレを覗いたが居ない。
1階に降りてみた...。

 カミさんは1階のゲスト・ルームで寝ている母の脇に座っていた。
母の顔は白い布で覆われていた。
見えぬ母の顔を見つめ、布団の中に手を入れ、生前と同じく...、リウマチで痛む母のひざをさすっていた。
それは家で...、病院で...、母の休むベッド脇でのカミさんの日課だった。
「マッサージしてあげないと、痛くて起きちゃうから...、
 痛いの嫌だものね、お母さん」

それ以来、私はカミさんに頭の上がらない亭主に成り下がった・・・・・。

        
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