“さらんご〜ら(saranggola)”とは、タガログ語で「凧」の意味です。 |
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父と“シルバー”(年月日不明) 父(自宅の庭にて・年月日不明) 寝むそう!(職場にて・年月日不明) やっぱり...飲んでる! (ハイキング・年月日不明) |
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さらんご〜ら夫婦がフィリピンへ来る前、亡父母への介護がありました。 最初に母が逝き、母を追うように父も...。 当時の毎日は戦いでしたが、今、読み返してみると、良き思い出です。 ※全2部作 第1部 痛いの嫌だもんね...お母さん |
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全2部作 第2部 | |||
母が逝って、平穏な日々が約1年続いた。 その間に、父がパスポートを作り、初めての海外旅行に出た。 勿論、行き先はフィリピンだ。 マニラ3泊、田舎に1週間滞在したフィリピン旅行、風景に馴染んでしまう父の姿であった。英語もタガログ語も出来ない父が、日本語の出来ないフィリピン人たちと、どのようにコミュニケーションをとったのか分からない。しかし、たくさんの友だちを作った。 ボロボロのマウンテン・バイクを借りてきて、田舎の砂利道を疾走する。 食事時に父を探すのが一苦労だった。 何処に行ったのかを近所の人に尋ねると、「あっち」だ、「こっち」だ、と教えてくれる。やっと探し出すと、見ず知らずの家の庭先で、取立てのブコ(まだ熟していない青いヤシの実)を両手で抱え、ヤシの実のジュースを飲んでいた。 家に戻ってきてから...、 「ご飯は要らないし...、 もう今日は外へ出ない」と言う。 どこか身体の具合が悪いのかと心配していると...、あっちこっちの家で、ヤシの実を3つも飲み干してきたそうだ。 田舎を離れる時、父の“TOMODACHI”がたくさん集まってきて見送ってくれた。 私よりも、友だち作りは上手だった。 ある夜、私が仕事から帰ってきたら、家の中が...もぬけの空だった。 父の姿も、カミさんの影すらも見当たらない。 そういえば、車を車庫に入れた時、父の愛車の自転車がなかった。 何処に行ったのだろうか? 心当たりは、飼い犬同士が親友のラーメン屋さんか、近所の和風スナックかのいずれかだろうと当たりをつけた。 ラーメン屋さんを覗いてみた。 午後9時を過ぎ、お店のシャッターが半分閉まっていた。覗き込んでみたが、父の姿も愛車も見当たらない。スナックに回ってみた。あった、駐車場に愛車が停まっていた。 店のドアを開け、中に入ると、カウンターに見慣れた背中がふたつ並んでいた。 生ビールのジョッキを並べ、マイクを握って、『・・・ふたりのおおさか〜』と、亭主を放ったまま、カミさんもいい調子である。 『ったく...っ!」 上機嫌で飲み、歌う二人の隣で、焼き魚で夕食を取る私だった。 「まったく、いい親子ね」と、スナックのママが言った。 私は顔を上げ、父と私を指差した。 ママが首を振りながら、父とカミさんを指差した。 「おいおい、あっちが親子で、俺は・・・・」と言いとかけたら、 「ご養子さん...マスオさん!」とママが言って笑った。 「おい、お前、払っておけ、先に帰る」と父が言って席を立ち、 「お父さん、酔っ払っているから、一緒に帰る。 自転車持ってきてね」とカミさんが言う。 『なるほど、俺は養子かもしれない』と思える一瞬だった。 支払いを済ませて外へ出ると、何とふたりで腕を組んで千鳥足で歌を歌いながら歩いている。その後ろから自転車を転がしている私...。 『養子に間違いない!』 花火大会の夜だった。 昨年は母の喪中だったため、我が家での花火鑑賞会兼飲み会は中止された。 この年は、昼過ぎから友たちが集まり始めた。 夕方には、もう出来上がってしまって、高いびきを立てる奴もいた。父とビールを飲むグループ、子供を寝かしつけながら世間話に興じる母親のグループ、フィリピン論を戦わせる論客のグループ。庭では我が家の愛犬と焼き鳥を分け合って、犬小屋の前で飲んでいる奴もいた。宴会は深夜まで及んだ。皆が帰る頃、父が言った・・・、 「また、来年来てください」 こんな1年で、私たち夫婦にとっても、最も落ち着いた、のんびりした時間だった。 しかし、私にはひとつの心配事があった。 父の癌の再発だった。 その心配は、間もなく現実になった。 ある朝、私が目覚めて階下に降りてくると、父が神妙な顔で待っていた。 「きょう、病院へ連れて行ってくれるか」 という父の言葉で、全てを察することができた。 早速電話をかけ、その日の私の予定を全てキャンセルした。 父を車に乗せ、病院に向かった。 カミさんには、入院の用意をしておくように、間違いがないようにメモを書いて残してきた。2日後には入院となった。 6年前に発病した際、63日間入院して、手術、治療の日々を送った。父には病名を隠し通した6年ではあったが、父は当然のように察していた。 「俺は癌だろう。 もう、手術は嫌だ、抗癌剤も嫌だ。 痛んだら仕方が無い。 そうでなければ、残った時間をお前たちと一緒に過ごしたい。 迷惑か...」 と、病院から帰る車の中で、父は言った。 検査入院は、1週間で終了した。 癌を認めた訳でもなく、否定した訳でもなく、我が家での生活は、以前と変わらず続いた。 しかし、週1回の通院は明らかに癌との闘いだった。担当医との話は、決して楽観的なものではなかった。 ある日自転車に乗って帰ってきた父が、足を引きずっていた。 もともと足が丈夫ではなかったのだが、その日は特別痛そうだった。直ぐに、車に乗せ、近所の整形外科に走った。軽い肉離れだと診断された。毎日元気に自転車に乗って、愛犬と散歩していた父であったが、その日から縁側で愛犬の頭を撫ぜる生活に変わった。この時、別の不安を感じた。 昔、私の祖母が梅雨時に庭で転んだ。 それ以来、歩くことが怖くなったらしく、家から出なくなった。急にボケが始まった。それから1年半、亡き母は祖母の世話を続け、実の娘たちに代わって最後まで面倒をみた。 師走になって、父の姉が年末の挨拶に来た。 珍しいことであった。 久しぶりの姉弟の食事、会話に、私たち従兄弟も深夜まで付き合った。 その翌日、いつもと同じように夕食を済ませ、皆が床に就いた。 私ひとり、深夜までパソコンのキーボードを叩いていた。 父の寝室で物音がした。寝室に走った。 父がベッドから降りて、風呂敷を広げ、衣類を包もうとしていた。 「何しているの...、夜中だよ」と言うと、 「看護婦さんが、帰っていいって...」 再び風呂敷の耳を結ぼうとしていた。 しかし、上手く結べずに、父は苛立っていた。 「お父さん、家に帰るって・・・」とまで言って、『あっ、来たのか!』と直感した。 カミさんも目を覚まし、降りてきた。 『どう、説明したら、いいのだろう』 祖母がボケてしまった1年半の生活を思い出した。 昼夜関係なく彷徨した・・・。 時にはガスを点け湯を沸かし、来てもいない娘たちにお茶を入れようとした。 所構わず排便をし、その後始末に追われた。 そんな様々な、思い出したくない記憶が戻ってきた。 昼間、食事をして、テレビを観て、おやつを食べて...眠った。 夜、皆が寝入る頃になると...、「家に帰る」と帰り支度が始まる。 ストーブを点け、トレーナーにジーンズ、セーターにジャンバーを着込んで、靴下を2枚履いて、父のベッド脇に毎晩張り付く生活が始まった。深夜1時頃になると、帰り支度が始まる。それは、早い時でも明け方まで続く。3日、4日と続いた頃、祖母のことを再び思い出した。 『もし、このまま続くようだったら、カミさんをフィリピンに帰そう。 クリスマスだから...とか言えば、納得するかも知れない。 ま、理由は後で考えればいい。 このまま、こんな生活が1か月、2か月...と続いたら、一家総倒れだ。 カミさんだけは無事にフィリピンに...、家族の元に帰そう』 と漠然と考えていた。 介護疲れで一家心中...、そんな新聞記事が我が身に思えてきた。 昼間はまともだった。 まともだけに、父と子の関係ではなく...、男と男の意地の張り合いがあった。 父の部屋に入って、乱れた布団を直そうとすると、くさい臭いがするのだった。様子をみると、大便をしてしまっていた。 さあ、どうするか? とりあえずは、衣服を逃がせ、車椅子に座らせた。 汚れた物は洗えばいい、臭いに負ければ2〜3回吐けば慣れる...、母の看病を通して覚悟はできていた。しかし、現実となると...困った。何とか、目の前の現実を解決しなければならない。 汚れたシーツを丸め、床に投げた。 お湯を運んできて、タオルで父の汚れを拭いた。 当然、手も汚れたが、気にしてはいられない。 着替えをさせて、シーツを変えて、またベッドへ戻した。 さっぱりしたのだろう、お茶をひと口飲んで眠った。 母の闘病時代からお世話になっていた、介護用品を商う薬局の店長さんに電話をした。紙おむつとプラスチック製のハンド・シャワーという器具と清拭用の薬を持って、彼が来てくれた。一応の使い方を教えてもらった。 紙おむつを身体の下に敷きこんだ。 汚れを拭き取る。拭き取った紙は、床に広げた新聞紙の上に上げ捨てた。 ハンド・シャワーにお湯を入れ、お尻周辺の汚れを洗い流した。 紙おむつが水を吸ってくれた。 清拭用の薬で拭いた。 排泄物の臭いより、時々肛門から出血する血の臭いには参った。 それでも、何とか清拭まで済ませればひと安心だった。 着替えが済んで、お茶を飲んで、ひと休みだ。 「ありがとう」と父が言った。 「気持ちが悪かったら、遠慮しないで言えよ」 「お前にお母さんの面倒を看させ、今度は俺だ。 申し訳なくってな」 「馬鹿言うなよ。 俺だって親父の背中で、結構おしっこもらしただろ」 「まあな、でもな...。 兄貴さんたちは面倒を嫌って寄り付かないし...、 お前とサッちゃんだけに苦労させてよ、済まないな」 「まあ、良くなったら、焼肉腹イッパイ食わせてもらうから...、 覚悟しておけって、親父!」 「ありがとうな」 「ありがとうはいいから、気持ちが悪かったら、直ぐに言えっていうの。 変な意地を張るなよ。 もっと、気楽に行こうぜ。 親父のちんちん、サッちゃんに見られたら恥ずかしいだろ。 だから、俺に任せろよ! なっ、頼むよ、親父」 父がボケ始めて10日目の夜、ひとつの事件が起こった。 いつものようにトレーナー、ジャンパーを着込んで、徹夜体制で父のベッド脇で備えた。いつものように、午前1時近くなって父が目を覚ました。 「喉が渇いたな、お茶でも飲もうか...」と言う父であった。 「えっ」と、我が耳を疑い、聞き返した。 「そんなところで、寝てたのか。 上で寝ろ、喉が渇いたから、俺はお茶を飲むけど・・・付き合うか」 父の言葉は、まともだった。 「向こうは寒いから、お茶を入れてくるから、待ってて」と言い残し、お茶を入れに台所に行った。 ふたりでお茶を飲みながら、世間話が始まった...治っていた。 「なあ、お前、こんなこと覚えているか...。 お母さんが入院している時、明子(長兄の妻)がさぁ〜、 お母さんが、『アーちゃん、来てくれたの』と言って手を伸ばした時...」 「ああ、あれか...、 姉さんが前で組んでいた手を、体の後ろに隠して...、 おふくろの手を握らなかった。 兄貴も同じだった」 「そりゃあな、17、8の娘じゃないし、 病気で手首が曲がってもいるし、皺だらけで汚い手だけどさ...、 お母さんが痛い手を伸ばしているのに、手を隠す...なんてな。 ありゃ、人間じゃあねぇっ」 「それは、言い過ぎだろう。 あれでも、人の妻、人の母だって」 「あんなことをしていたら、いつか自分の子供にも見限られる。 奴の心に近づいて行くような馬鹿はいやしねぇっ」 と、父がはき捨てるように言った。 この話は、父がその後も、何度も何度も涙ながらに語った話だった。 話し声と物音で目を覚ましたカミさんが、2階から降りてきて...、 「どうしたの?」とひと言。 そして...、 「えっ、私もお茶飲む...」と、全てを察した様子だった。 「はは、見つかっちゃたか! 一緒にお茶を飲んで、寝ろ」と言う父だった。 父がまともになって、3日目の昼時だった。 友人のマリオ君が来ていた。一緒に昼食を食べ、父も食事を普通に済ませた。その日、カミさんには用事があった。家を留守にする訳にはいかないので、マリオ君がカミさんを送ってくれることになっていた。 カミさんの支度も終わり、いざ出発という時に、父の部屋でゴトンと大きな音がした。 急いで、ドアを開け、中に入った。 車椅子が倒れ、父が床に横たわっていた。 抱き起こした時、父の目には黒目が無かった。 呼吸もかすかだった。 意識は全くなかった。 こんな父を両腕で抱いたことが、以前にもあった。 その時は、ほんの数秒で意識が戻った。 近くの医者も駆けつけてくれた。 しかし、この時は違った。 父を車椅子に座らせ、カミさんとマリオ君に任せて、電話を取った。 先ずは、救急車の手配だった。 続いて、父の担当医に状況を説明した。 救急車と相談して、持ちそうだったら連れて来い、駄目なら最寄の病院に飛び込めという指示だった。 経験から、救急車が到着するまで、およそ5分と分かっていた。 担当医との話でも、既に2〜3分は過ぎていた筈だ。 電話をそのままにして待たせた。 救急車が来た。 状況を医師に説明してもらった。 医師のもとへ運ぶことになった。 私が救急車に乗り込み、カミさんをマリオ君に病院まで送ってくれるように頼んだ。 救急車の中から、親戚、兄たちに連絡をいれた。 その時感じた・・・、『救急車って、意外に遅いんだな』 病院へ運ばれた父は、意識を取り戻し、状態も落ち着き、ひと安心した。 その後は、毎朝7時に病室へ顔を出し、朝食を一緒にとり、時間があれば夜の就寝前にも顔を出す生活が始まった。 父も順調に回復し、年末には外泊許可を貰って、正月を我が家で過ごせそうな状況にまでなった。しかし、院内感染とかで、中止となった。その後は、病室に入る時には手を消毒し、白衣を着て、マスク、帽子をつけるようになってしまった。父の姉や親戚、私には何の反応もしない父であったが、カミさんだけには妙な反応をみせた。 カミさんが身につけた白衣やマスク、帽子を脱がせようとするのだった。 その様子を見ていた婦長さんが言った。 「きっと、サッちゃんには、自分が病気だと思われたくない...、 そんな気持ちなのよ、きっと。 サッちゃんだけは、白衣もマスクもしなくていいわ。 でも、部屋から出たら、消毒とうがいをしてね」 と婦長さんの特別な許可を得ることができた。 病棟の医師にも、看護婦さんたちも、顔馴染みの入院患者にも、その家族にも、毎日通ってくる私たちは有名な存在になっていた。 2月14日、バレンタインデー。 カミさんが何処で買ってきたのか、父のテーブルの上にチョコレートを置いた。 そのチョコレートを見て、看護婦さんたちが...泣いた。 『お父さん、がんばって! 大好き!』と書かれていた。 『こんな漢字、カミさん読めたのかな』 ちょうどこの頃、担当医師に呼ばれた。 ちょっとした立ち話だった。 「お父さんのことですが...」と切り出したが、話しにくそうだった。 若い医師だけに、こうした話しにも経験不足なのだろうと想像できた。 「はい...」と答えた。 てっきり、病状の説明だと思っていた。 「お父さんの...、措置なのですが...」 確か、そんな言葉だったように記憶している。 「どの程度まで...」 「どの程度までとは...、 機械とチューブを繋いで生かせておくか、どうかと、いうことですか」と尋ねた。 「はい、そういうことです」 若い医師の態度は、急に毅然としたものになった。 「ひとつだけ、お願いがあります。 いつ何時でも、ご連絡をください。 カミさんを連れて、飛んできます。 息のあるうちに、自分で生きているうちに、カミさんに会わせてやってください。 お願いは、それだけです。 それ以上は望みません」 「分かりました」 その後、医師が何かの言葉を呑みこんだ。 それに気づいていたが、私は尋ねなかった。 それから1週間ほどして、深夜帰宅した。 その日の朝も7時半から病院にいた。その日の別れ際の表情が気になった。時間は夜中の12時になろうとしていた。 「ねぇ、病院に行くけど、一緒に行く?」とカミさんに尋ねた。 「一緒に行く。 私、昨日も今日も行ってないから...」とカミさんは着替えを始めた。 2月の深夜、外は氷点下だったろう。 カミさんのいでたちは、これでもかというほど着込んで、丸々としていた。 病院に着いたのは、午前1時近かった。 夜間入り口の警備員も顔見知りだった。缶コーヒーの差し入れで、通してくれた。病室まで、靴音を忍ばせて歩いた。エレベータで5階に上がった。当直の看護婦さんの姿が見えない。父の病室まで行った。看護婦さんが居た。ドアのガラスをノックをした。看護婦さんが手招きをしてくれた。 「どうしたの」と小声で尋ねてきた。 「うん、朝、別れ際の顔が気になったもので...。 変わりはないですか」と聞き返した。 「大丈夫よ。 でも、今、痰が絡んでいるから、吸引しているの...。 サッちゃん、カーテン締めて、外から見えるから」 看護婦さんは、時間外に家族の面会を許したことが他の患者さんに分からないように、カーテンを閉めるように言った。 およそ30分、父との面会を終え、途中、屋台のラーメンを食べて帰った。 翌日も帰宅時間が深夜になった。 その日は、家に戻らずに、病院へ直接向かおうと車を走らせた。しかし、前夜の帰宅は午前2時過ぎ、床に就いたのは3時過ぎだった。朝7時には、再び病院にいた。寝不足だった。運転していても、眠い。このまま病院へ行って、父の顔を見て帰るとしたら、家に帰る頃には居眠り運転をするに違いないと思えた。途中で、引き返すことにした。 午前0時30頃、家に着いた。 疲れていて、眠かった。 ヒーターを点けた。 カミさんはまだ寝ていなかった。 カミさんがコーヒーを入れてくれた。 居間のソファーに座り、タバコに火を点けた...。 その時、電話が鳴った! 時計を見た、午前0時50分。 「直ぐに着替えて! 上のヒーターを止めて! 急いで!」と電話に出る前に、カミさんに言った。 電話に出る前に、何処からの電話か、その用件も察しがついた。 電話に出た。 私の予想は、当たっていた。 病院に向かう車の中から、親戚と兄に電話を入れた。 友人らにも電話を入れた。 病院に着いた。 連夜の深夜の訪問だった。 エレベータが降りてくるのが、長く感じた。 エレベータに飛び乗った。 5階に着いてから、父の病室まで走った。 私たちの到着に、婦長さんが気づいた。 「入って」と婦長さんが叫んだ。 担当医師が、冷静な面持ちで私に挨拶をした。 「お父さん」と声を掛けても反応が無かった。 ベッドの脇に行った。 担当医師が場所を空けてくれた。 「お父さん」と再び呼んだが、反応の無いのは同じだった。 目は開いていたが力はなく、何処を見つめているのか判断できなかった。 そのうちに、兄夫婦が到着した。 同じように声を掛けた。 反応の無いのは、同じだった。 「サッちゃん、ここへ来て」 婦長さんがカミさんを、ベッド脇に呼んだ。 そこには兄が居た。 「サッちゃん」と、躊躇するカミさんに、再び婦長さんが声を掛けた。 「おとうさん」とカミさんが父の手を握った。 父が振り向き、顔をカミさんに向けた。 反応したのだ。 私はベッドの反対側に移り、カミさんと並んで座った。 「おとうさん」のカミさんの声に、僅かに父が頷いた。 かすかに笑った...ようにも見えた。 確かではない。 しかし、左を向いた父の目から、明らかに涙が流れた...確かに見た。 カミさんの手を握って、泣いたのは確かだった。 それから、目を閉じた。 担当医師は心臓マッサージを始めた。 私は、直ぐに止めた。 若い担当医師には、私の気持ちを伝えてあった。 カミさんが手を握り、それに頷き...笑った。 涙を流しただけで十分だった。 腰が抜けた。 どの位の時間が過ぎただろうか、父の姉、妹たちが来た。 もう、息は切れていた。 皆が部屋を出た。 父の着替えのために、ベッド下の箱から浴衣を出した。冬なので、ネル地の浴衣だった。病院から持ち帰り、消毒薬に浸け、洗濯をしてアイロンをかけるのは、私の日課だった。中年の息子とフィリピン人の嫁のやることだから、所詮、この程度...と陰口を叩かれないよう、毎日、毎日、意地をはってのことだった。その浴衣をベッドの傍らに置いた。この時初めて、無性に涙が流れてきて止まらなかった。 その後のことは、殆ど記憶にない。 母の時と同様、死亡診断書を受け取りに行ったのも、担当医から話を聞いたのも、私だと思うのだが記憶が全くない。家まで車を運転して帰ったのか、病院まで来てくれた友人の運転で帰ったのかも、憶えていない。その後の通夜や葬式の準備も、何もしていない。ただ、遺影として飾る写真だけは、選んだ記憶がある。その写真は、今でも母と並んで笑っている。 母に続いて父も逝ってしまった。 約4年半の間、カミさんは献身的に介護をしてくれた。 他の人のことは言うまいと誓った。 父母のお通夜、葬式、初七日、四十九日、一周忌、三回忌...、カミさんは弔事には、何回出たことだろう。こうした弔事に、私抜きで行かせても、十分その役目を果たしてくることができるだろう。それほど、場数を踏んでしまった。不憫なことだ。 父の四十九日が済んで間もなく、カミさんを最も可愛がってくれた叔母が亡くなった。 父と同じ、癌であった。再発して7日目だった。 この時、死というものを冷静に受け止めることができた。 通夜からの帰路、車を運転しながら考えた。 俺の手足の関節の痛みは、おふくろのリウマチからきているのだろうか。 おやじも癌で逝った。 急な発病だった。 俺だって、分からない。 それに、心臓発作。 今度来たら、終わりかも知れない...と思ったこともある。 もし、俺に事が起きたら、カミさんはどうなるのだろう。 3つの葬式を出すために、日本に来たことになてしまう。 なんとか、しなければ、俺が元気なうちに...。 私のわがままで、父母との生活を受け入れてくれたカミさん。 思いもよらぬ献身的な看病と父母への慕情...、 カミさんに更に頭が上がらなくなってしまった。 |
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あとがき | |||
下手な文章で恐縮でした。 フィリピンに移って、時間のあるときに書きなぐった...、この3倍、4倍も長い書き物の中から、要所を抜粋して、加筆したものです。時間的な経緯など、説明不足な点がありますが、ご容赦ください。 幸か不幸か、私たちには子供が居ません。 もし子供が居れば、小学校を卒業するまでとか、義務教育が終わるまでとか、成人するまでと日本に縛られることになったと思います。また、私の仕事が自営業だったために、定年という節目もありませんでした。 日本でのこれからの生活には大きな不安がありました。 関節の痛みと心臓発作は心身ともに辛いものがありました。もし健康が回復したとしても、子供もなく老後に至った時の不安、心配ごとは、私たちの経験から容易に想像することができました。私の兄たちも親元から離れていては、手を出したくても容易にはできません。傍に居る者であるからこそ、例え至らなくても気がついたこと、できることは手軽にすることができました。 フィリピンの家族意識は、貧しくとも一緒です。いつも心はひとつに結ばれています。それは良い場合もあれば、悪い事態にも陥る危険性も備えています。 ある時、高校生になる姪っ子に聞きました。 「もし叔父さんが死んだら、泣いてくれるか...」と。 冗談半分に聞いたのですが、姪っ子は涙を流し、泣き出してしまいました。 こんな姪っ子が居れば、私はここで眠れる...と改めて感じました。 未だに父母の遺影に手を合わせることができず、朝お茶を入れ、ご飯をあげ...、ただ「お早う!」と声を掛ける日々の私。 盆、彼岸にはおはぎを作り、月命日には花を遺影に飾るカミさん。 そんなカミさんが、時々言います... 「あぁ〜、お父さんとお母さんに会いたいなぁ〜」 そこで...、 「へっへっへ、私はもう直ぐ会えるもんね」と私が言うと...、 思い切り頭を叩かれています(笑)。 |
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